街のエッセイ
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新宿の坂道紀行
T神楽坂界わいの坂道 A地蔵坂−−光照寺はもと牛込城(地下鉄大江戸線牛込神楽坂徒歩2分)

 「わらだな」といわれて地蔵坂を想起したら神楽坂通の有段者といえる。
坂は、神楽坂5丁目を6丁目に向かって左折する。S字の坂である。
私も5年前まで講談社という出版社で編集の仕事をしていたが、ここは出版人にはなじみの坂なのだ。坂を右にカーブしていった丘の上に「日本出版クラブ会館」があるからで、出版祝の会場によく使われる。そのくせみな地蔵坂の名前を知らない。むしろ「わらだな」といった方がぴんとくるひとがいそうである。出版人には夏目漱石ファンや歴史愛好者が多いからだ。
 「落語はすきで、よく牛込の肴町の和良店(わらだな)へ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといへば小供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席は大抵聞きに廻った」(夏目漱石「僕の昔」明治40年)。
地蔵坂は袋町にある。そこは豊嶋郡野方領牛込村だったが、のちに町屋となり、肴町の横丁でなおかつ坂上は御徒組の門で袋小路だったため、袋町となった。旧牛込区は、このあたりが武蔵野の牧だったのでこの名を冠した。つまり牛がたくさんいたのである。駒込、馬込もこのたぐい。
 わらだなとは藁店である。「改撰江戸誌」には「子安地蔵堂あり。藁を商うもの古くよりおれば藁店ともよへりて藁坂という」ということである。漱石が遊んだ席亭は、本誌「家族の肖像」の永楽家さんの祖先が経営したようにもきくが、のちに洋画劇場に変身していった。それは「牛込館」という。東京中にある席亭よりも最先端の洋画を選んで商売変えしたところは、進取の気性を感じる。江戸っ子気質に流行への敏感さがあるが、神楽坂人にはそうした気風があったのだろうか。
 漱石の落語好きに触れたが、朝日新聞夕刊社会面が6日間特集を組んだ「神楽坂」の2004年2月5日のコラム「東京」は、「文化を発信」というタイトルで、神楽坂と落語をとりあげた。私は神楽坂が落語のにあうまちだとT記者に提案したが、その根拠はこうしたことだった。そのころ神楽坂には演芸場が5つもあり、6丁目の安養寺うらの「牛込亭」もまた落語と講談の専門館であった。いまの神楽坂組合(料亭組合)のある検番には神楽坂演舞場もあり、柳家金語楼が出演していた。
 ところで現在坂の途中には、居酒屋のもんとまぁるがある。昭和30年代の古家をそのまま使っている。住居を店に改築したので、通し柱が店内いたるところにある。もんの2階のまぁるは、天井をとり外しているので、黒く塗装した屋根の内側がむき出しになり、変化があって、空間の広がりを感じて気持ちがよいのだが、空が高いうちに来てみると(ふだんは17:30開店)、屋根のあちこちがほころび、空の光が極細状に店内にさし込み、まことに愉快である。何でそんなことにくわしいかというと、両店とも私が経営しているからだ。
 昨今デザイナーっぽいこじゃれた店が多くてつまらない。私はこうしたなにげない古家に愛着があるのである。
もし寄られることがあれば、神楽坂まちの手帖編集部まで連絡してくれたら、藁店時代のまちの写真でももって参上しよう。
 さて地蔵坂におとしてはならないもの。坂上の光照寺。浄土宗で芝増上寺の末寺でる。
見ものは、なんといっても林立する出羽国(山形)松山藩酒井家の巨大な墓石群だ。
奇妙なしかも圧倒的な存在感を示している。いまの酒井家はキリスト教に改宗していて、墓守問題では大変興味のある、奇想天外な話もあるが、ここではふれない。
 光照寺は牛込城跡であり、第70回芥川賞作家森敦、便便館湖鯉鮒(狂歌師)の墓、海ほうずきの供養塔、キリシタン遺物碑など独特のものがある。観光下手な寺なので、ひっそりとしてかえってよい。
ここを観光したら、まっすぐあるいて牛込中央通りの商店街にでてみよう。地下鉄大江戸線開通を機に、いろいろ新しい店が進出しておもしろくなった。
 最後に、江戸写し絵というのをご存知だろうか。そのはじめての公演が、江戸時代この藁店で行われたときいた。ご存知のかたはお教え願いたい。

歩く人 季刊誌「神楽坂まちの手帖」編集長 平松南

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