街のエッセイ
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「新宿の坂道紀行@神楽坂は文学の坂道」

 神楽坂は坂下が海抜5メートル、赤城神社のあたりが24メートルである。 700mで海抜が19メートル高くなる。
 最初は一気にのぼり、やがて緩傾斜になり、再びのぼる。変化に富んだ坂 道である。
永井荷風はこの坂を何度も上がった。坂上の矢来町三番地には、師と仰 ぐ硯友社の同人広津柳浪が住んでいた。柳浪は、尾崎紅葉の硯友社の時代が過ぎると、次第に貧窮し、一家を引き連れて転居を繰返していったが、荷風があこがれたころは、矢来にいた。
 荷風文学の出発点がこの神楽坂であることは、あまりり知られていない。
 大正6年に荷風が発表した「書かでもの記」には「そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、「簾(すだれ)の月」と題せし未完の草稿一篇を携え、牛込矢来町なる広瀬柳浪先生の門を叩きし日より始まりしものというべし」と述べさらに「先生が寓居は矢来町何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂を上がりて、寺町通りをまっすぐにいく事数町にして、左へ曲がりたる細き横丁の右側、格子戸造りの平屋にしてたしか門構はなかりしと覚えたり」と書く。
 荷風はこの直後の明治三十四年、九段の暁星にフランス語を学ぶために入学 している。アメリカ渡航の数年前の青春時代である。とうぜん足繁く神楽坂をおとなったに違いない
 文学史上「硯友社時代」を画した尾崎紅葉は、広津の師であった。明治二十二年東大在学中に読売新聞社に入社、同紙につぎつぎと作品を発表して一世を風靡していた。明治二十四年、二十五歳で横寺町の朝日坂に新婚所帯をもたった。
 そこに泉鏡花、田山花袋、小栗風葉らがつぎつぎに弟子入りを志願して殺到し坂を上ってくる。二十代前半にして著名な大作家の人気が垣間見られる。
 夏目漱石も神楽坂を頻繁に利用した。
大正4年になる「硝子戸の中」ではこんな回顧をしている。
「買物らしい買物は、大抵神楽坂まで出る例になっていたので、そうした必要に馴らされていた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来の坂を上がって酒井様の火の見櫓を通り越して寺町へ出ようという、あの五、六町の一筋道などになると、昼でも森が陰森として、大空が曇ったように終始薄暗かった。」「それから」でも、漱石は主人公の代助を袋町に住ませ、神楽坂や地蔵坂を行き来させている。このあたりの土地鑑も確かである。
 「生まれ出る悩み」の有島武郎はその著「骨」で「神楽坂の往来はびしょびしょにぬかるんで夜風が寒かった。而して人通りが杜絶えてゐた。私達は下駄の上に泥の乗るのも忘れて、冗談口をたたきながら、毘紗門の裏通りへと折れ曲がった。」と描写した。
 荷風、鏡花、花袋、そして漱石や武郎などの文豪たちが若き日に、知らぬ間に神楽坂ですれ違っていたことを想像するのは、なかなか悪くない。ここに一葉がいれば申し分ないのだが、そうは問屋が卸すまい。
 ところで、江戸切り絵図には必ず神楽坂下の入り口西よりの角に、牡丹屋敷なる典雅な名前の武家屋敷が記されている。
牡丹屋敷の謎に迫ると、こんな事実が分かってきた。
 八代将軍吉宗の世に、紀州から岡本彦右衛門という家臣がお供してきた。彼は武家にお取りたてのところを、町屋を望んで当地を拝領した。「熱湯散」という薬を広めたたりしていたらしいが、この屋敷内に牡丹を栽培して献上していたことから、牡丹屋敷の名前が流布し、牡丹屋敷彦右衛門と称した。しかし不幸が牡丹屋敷を襲った。当主はお咎めをうけ、家財を召し上げられて、三つ割長屋に変わってしまたという。美しい屋敷名に隠された悲劇である。

地域誌「神楽坂まちの手帖」編集長
平松南

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